2月14日(木)
6日の午前12時20分、昭和大学病院で美子ちゃんのお父さんが亡くなった。
本当は救急車の中で、すでに亡くなっていたかもしれない。
救急車の中で、2人の救急隊員は必死で人工呼吸と酸素吸入をしてくれていた。
美子ちゃんは泣きながら「パパ、パパ」と言って足をさすっていた。
僕も泣いた。
6日の午後、お父さんは病院の霊安室から桜新町のマンションに帰ってきた。
ベッドに寝かされたお父さんは、顔の色艶もよく、まるで眠っているようだった。
お母さんは、亡くなった気がしないと言っていた。
お父さんは映画の録音技士だった。その時代の友達が2人来てくれて、昔の話をしてくれた。
「どんな人でも差別しない人でした」と言う言葉が印象に残った。
お父さんに最初に会ってお酒を飲んだのは、いまから10年ほど前のことだ。
美子ちゃんと僕が一緒に住み始めた頃で、僕らは俗に言うダブル不倫だったから、美子ちゃんは両親にそのことを言ってなかった。
しかしついに、美子ちゃんの両親に言わなければいけない日が来たのだが、僕はお母さんよりお父さんの方が恐くて、緊張しながら美子ちゃんの両親のマンションに行った。一人娘の交際相手が、どこの馬の骨かわからない50近いオヤジで、子供はいないが女房持ちである。どんな父親だって歓迎するわけがないだろう。
いきなりその話を切り出すわけにもいかないから、僕は「美子ちゃんをお世話している出版社の人」ということにして、お母さんの手料理をご馳走になりながら、お父さんとお酒を酌み交わした。
ころ合いを見計らって、美子ちゃんが「いま末井さんと暮らしているんです」と言った。一瞬場が凍り付いたようになり、お母さんは震え出し、美子ちゃんは泣き出し、お父さんのお酒のピッチが急に上がった。
しばらくしてお父さんが僕の耳元で「オ○○コしたのか?」と小さな声で聞くから、「えっ!」と思ったけど「はい」と答えた。
お父さんはグデングデンに酔っ払ってきて、「どう? 具合はよかった?」とか言っている。ムチャムチャなお父さんだと思ったけど、僕の緊張はいつの間にか解けていて、2人でどんどんお酒を飲んだ。優しい人だと思った。
それから、僕らは近所に引っ越してきて、僕はお父さんと友達みたいに付き合わせてもらっていた。
12月30日の競輪グランプリに僕が誘い、2人ともボロボロに負けて立川競輪場から帰って来がけに、「ちょっと飲んで行きますか?」「そうだね」ということで、用賀の居酒屋に入った。お父さんはモロモロの病気を抱えていて酒を止められていたけど、2人で3合も飲んでしまった。
お父さんは、お母さんと出会った頃の話をし「こんな話をするのは初めてだね」と言って、ちょっとテレくさそうに笑っていた。これが2人で飲む最後のお酒になった。
7日は美子ちゃんとスタジオに行き、遺影に使う写真を2人で選んだ。
美子ちゃんが『たまゆら』でお父さんの女装写真を撮ったとき、「これを遺影に使ってくれ」とお父さんが言っていたらしいけど、いくらなんでも女装写真じゃマズイんじゃないかということで、9年前の僕の誕生日のとき撮ったごく普通の写真にした。
9日は桜新町式場でお通夜だった。式の準備は、美子ちゃんのお兄さんご夫妻に全部任せた。
お父さんと親しかった人だけを呼ぶ密葬にしたけど、70人ぐらいの人が弔問に訪れてくれた。
夜になって雪が積ったので、帰る人が転ばないか気になったけど、ドラマチックな感じがした。
10日は昨日とはうって変わって暖かい日で、昨日の雪もほとんど溶けていた。
葬儀を終え、代々幡斎場で遺骨にしてもらい、初7日の法要を終え、遺骨は家に帰ってきた。
遺骨を置いた祭壇を見て、何か映画の画面が次々替わっていくような感じがした。
その夜は、美子ちゃんはいつまでもお父さんの話をお母さんとしていた。
美子ちゃんと葬儀会場に向かう

綺麗に花で飾られた

夜になって雪になった

お父さんのように生きることを誓った